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第20話:東北の荒風、海を渡る

第13話で初登場した頑固者の山夫クン。静子さんからジャスト1年遅れで英国に渡ってきました。ヒースローから直送された田舎の語学学校に半年弱こもりきり、ロンドン上京後は即キングス・カレッジで囚われの身になったため、私は長い間彼を見ることがありませんでした。彼がユニコン事務所に姿を現したのは、実は翌年になってからなのです(自分で何もかも決済する性分なのでユニコンが必要なかったのですね)。
負けず嫌いでかたくなで自分の考えに固執する性格ゆえ、メトロポリス・ロンドンの風を誰よりも冷たく感じながら始まったロンドン生活だったようです。

山夫クンにインタビュー
(これを見ても山夫クンの性格の一面が窺い知れるのでは?)
■心に残る一冊 :畑村洋太郎著「失敗学」、
  司馬遼太郎著「竜馬が行く」
■好きな作家:畑村洋太郎先生、司馬遼太郎先生
■尊敬する人物:坂本竜馬、シャア・アズナブル
■心に残る映画:「海の上のピアニスト」
■今度生まれ変わったら:世界の支配者

●山夫くん、渡英する(2003年4月) 僕が英国に渡ったのは高校卒業直後の4月。親類の人に紹介してもらったケンブリッジの田舎の語学学校で5ヵ月過ごしました。その頃の僕は単純で純粋で、世界をモノクロでしか見ることができない天邪鬼(あまのじゃく)でした。 世界をモノクロで見ると言うのは、例えば、日本は「僕の自由を束縛し」「自分に適した自由な勉強ができない国」であり、英国は「ユートピア(楽園)」であると定義するような、つまり、白か黒かに分類する見方です。物事を白黒でしか見ないという意味から、僕はこれをプロパガンダ症候群と名付けています。まあ、カラフルな世界を求めながらもモノクロな世界に生きたかったのかもしれません。


●ロンドン上京(2003年9月)
まもなく始まるキングス・カレッジのファウンデーション・コース(別名3Kコース)に入学するためにロンドンに出てきました。
僕はここで初めて、現実と理想、空想と虚構に戸惑います。目的も性格も生き方もことごとく違う留学生たち。母国(日本)を公然と批判する日本人。民族の特性ばかりを非難する欧米人。民族ごとに固まる人々。許しがたいのは彼らの傍若無人な行動と言動で、これには嫌気がさし怒りすら覚えました。そして自分はと言うと、頼る人多からず、友達と呼べる人もおらず、文化も意識も違う無数の人間の渦の中での孤独感。18歳なんてドラクエで言ったら最初のレベル2ぐらいなのにいきなりレベル25のダンジョンにぶち込まれたようなものでした。

社会的刺激に抵抗力が無かった僕は、「見たくないものは見ない、やりたくないものはやらない」「間違っているのはやつらであり、モノを考えてる自分が正しいのだ」という排他的な考え方で自分をガードするようになりました。しかし、やがて、これでは自分を追い詰めるだけと気づきます。そこで、白黒だけでなく、ブルーやグレーをも取り入れるスキルを身につけるようになりました。世の中には白黒だけでは分類できない考えもあるのだと認める方法です。こんな哲学(?)を取り入れることで葛藤は相変わらず続いたものの、少し生きやすくなった気がしました。

●ファウンデーション・コース始まる(2003年9月)
キングス・カレッジでのコースが始まりましたが、心の葛藤は整理しきれていたわけではなく、学習面での行き詰まりと息苦しさの中で増大していったように思います。他のどこのファウンデーション・コースと比べても「ワケもなく厳しい」との評判を誇るコースだけあって、エッセイとかは、もうどんなにがむしゃらにやっても点数が伸びないのだとさえ思うことがしばしばでした。

●経済学部一直線(2003年10月)
将来は自分で会社を立ち上げアントレプレナーを目指していた僕は志望学部として躊躇なく経済学部を選びました。後になって考えると、この時点でユニコンに相談すべきだったかもしれません。アカデミックで学ぶ経済学は本来、経済学者や研究者を育てるのが目的であり、別に金儲けの方法を学ぶ場所ではないのに、経済学と経営学をごっちゃにしたところに落とし穴があったのです。 おまけに英国の経済学は元々理数系学科なので数学が必須です。数学もさほど得意ではないのに経済学部一直線に突っ走った果ての結果は壊滅となります。2004年5月、UCASからの通知は僕を落胆のどん底に突き落としました。オファーをくれた先は保険校の1校のみ。どう妥協しても行きたくないような大学でした。

●まな板の上の鯉(2004年7月)
英国にしては蒸せるような暑い夏、僕はユニコンを訪ねました。それまで何もかも独りで考え決断してきた僕ですが、もうここまで追い詰められると仕方がありません。
「相談に来るのが遅いんだよ、お前はホントに思い込みが激しい上に頑固だからな」ユニコンの社長には僕の性格も含めて結構めちゃくちゃ言われ放題言われました。「ま、オレには考えがあるからちょっと辛抱しろ」の言葉をあてにしてユニコン通いが始まりました。通えとは別に一言も云われなかったのですが、暑苦しい寮で一人悶々とするのが耐えられなかったのです(向こうにとっては迷惑だったでしょう。実際そう言われました)。
時期が大学の夏休みに当たっていたのでさすがの社長も目当てのカレッジ担当者をなかなか捕まえられないようで、僕が遠慮しいしいユニコンの事務所内をうろつき回る日がそれから3週間くらい続きました。ふて腐れてユニコンの(古い)応接セットに大の字にひっくり返り「煮るなり焼くなり好きにしてくれ」とか「どうせオレはまな板の上の鯉だ」とかわめいたこともあります(向こうにとってはさぞかし大迷惑だったでしょう。実際そう言われました)。こんな健気な少年が心を痛めているというのに、ユニコンのスタッフは容赦がありません。「あーうざいわねー。そんなひねた鯉、煮ても焼いても食えないわ。大体この期に及んでまだそんなジジ臭い表現に凝ろうとするのね。そーゆー性格がこーゆー不幸を招くのよ。こんな時くらいせめて若者言葉を使えよ」と冷たくあしらわれただけでした。

「決まったら電話するから家で待っててくれよ」―「またか」という社長の迷惑顔を無視してユニコンでゴロゴロしていたある日、ついに進学先が決まりました。Queen MaryのBusiness Managementです。今にして思えば、申し込む段階で間違ったのかなあ、最初からBusiness Managementで申し込んでいれば良かったのかなあ、と思わないではありませんが、何せ僕は頑固ですから、たとえ申込み時点でユニコンに相談していたとしても、そしてどんなアドバイスをされていたとしても、きっと自分の考えを押し通してやはり同じ結果になっていた気がします。
とにかく「まずは入った!」― 辛くて長かった2004年の夏が終わろうとしていました。

2003年の日本
●六本木ヒルズ、オープン
●日経平均1982年以来の大底値を記録
●日本郵政公社誕生
●芸能人:シュワちゃん(カリフォルニア知事)
●スポーツ:朝青龍(モンゴル人初の横綱)
●流行った歌:世界に1つだけの花(SMAP)
●流行語:毒饅頭(野中広務)、マニフェスト

2003年の世界では
●イラク戦争
●SARS流行
●米軍フセインを拘束
●大地震と大津波の発生
(為替:1ポンド=190円)
   

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